たったったった、と軽い足取りが聞こえたような気がして、眠っていた瑞希の意識は浮上した。
そのぬくもり
瑞希は、一が肩を揺さぶって起こしてくれたことで、今日の授業が終了したことを知った。
「瑞希、帰ろうぜ」
「……ん」
きっと、その小さな一言は、一以外が聞けばただ頷いているようにしか見えないだろう。
けれど、一には瑞希のそんな仕草で全てを読み取る万能の翻訳機能が備え付けられている。
「あ?帰んねえの?なんで?」
意味が通じたことに安心して、瑞希はまた机に突っ伏した。
「……ねむい、から……」
「今日は先生休みでせっかく補習ナシだっつーのに、なんで学校に残ろうとするかね」
「……ぐう」
一が肩を竦めても、瑞希はするすると眠りに落ちていく。
「まあ、そういうなら、俺先帰るからな。っつーか、寝るならバカサイユのほうが静かだと思うぞ。今日はゴローも清春もいないしな」
「……ぐうう」
「ん。じゃあな」
寝息なのか返事なのか、一以外にはきっと誰にもわからない。
最近やっと瑞希を手懐けてきた南も、まだまだ一の足元にも及ばないだろう。
いつか瑞希専用の翻訳機ができる日はこないのかと、他のクラスメイトたちはその光景を見ながら思うのだった。
瑞希の頭に乗ってすやすや寝ていたトゲーが、ふと顔を上げ、するするとそこから机に降り立った。
そのあとに、瑞希がそっと目を開けた。
「……トゲー」
「クケッ!」
もそもそと動いて、突っ伏していた体勢から、仰向けに立て直す。
突っ伏していると、たまに息苦しくなるから、瑞希は仰向けのほうがよく眠れる。
いつもよく寝ているが、それよりもよく眠れるのだ。
「……もうすぐ、かな」
仰向けになった胸の上に乗ってきたトゲーを指先で撫でながら、瑞希は小さく笑った。
まだ聞こえないけれど、きっともうすぐ。
この教室へ向かう、軽い足取りが聞こえるはずだ。
もう生徒は誰もが帰宅してしまったので、教室には瑞希とトゲーだけ。
足音もよく聞こえるだろう、そう思っていたら、案の定たったった、と音が近づいてきた。
「ちわー!」
ガラリと勢いよく開いたドアの音がうるさかったけれど、瑞希は気にせず目を閉じた。
教室に入ってきた彼の目的が自分であることは知っていたけれど、わざわざ起きて出迎えることはしない。
「斑目~」
近づいてきて、話しかける声が聞こえるけれど、瑞希は黙って寝たフリをする。
寝たふりをすると、段々眠くなってくるのだが、不思議と彼の声はすんなり耳に入ってくるので便利だ。
「ト~ゲ~」
「お、トゲー。お前の友達は、今日もよく寝てるな」
人間に話しかけるようにトゲーに挨拶する彼は相変わらず底なしに明るい声だった。
きっと、南が急病で休みだから、その彼女の代役として瑞希の補習にきたのだろうことくらい、たやすく予想できた。
だから瑞希は今、この教室にいたのだ。
(補習なんて……する必要ないけど)
IQ200を超える自分に勉強も補習も必要ない。
けれど、それは誰にも言えない秘密だった。
まっすぐ自分の心の中に入ってきた担任になら、いつか言える日がくるかもしれないと思うようにはなってきた。
それくらい、南のことを瑞希は信頼し始めていた。だから、補習だってなるべく受けるようにするようにしたのだ。
補習を受けるのは、南のためだ。それなのに、どうしてわざわざ居残って、南の代理である真田の補習を受けるために残っていたのか。
転校当時から周りでうるさく話しかけてきた外国語の教師は、無視してもなにをしてもめげることなく瑞希に近づいてきた。
正直煩わしいし、放っておいてほしいし、なによりもうるさい。
本当に教師という年齢なのか、疑わしいほど子供っぽいし、童顔だし、背は低い。
どうしてそんな彼が自分に関わるのか、瑞希は不思議でしょうがなかった。
「南先生のおかげもあるけどさ」
そんなことを考えていたら、ぽつりと零された言葉。
瑞希は、寝たふりを続けながら真田の気配を追う。
「南先生はすごいよなあ。こーんな問題児を素直にさせちゃうんだからさ」
心底南が羨ましいというような声音に、真田は気づいているのだろうか。
瑞希自身、自分が以前よりも周りと打ち解け始めているという自覚はあまりなかったけれど、周りから見るとそうであるらしい。
確かに、バカサイユにいる時間も長いけれど、教室にいたり学校にいたりする時間は以前より長くなったし、一の通訳は必要だが、クラスメイトとぽつぽつ話すことも少なくなかった。
相変わらず人間はあまり信用できないし、深く関わりたいとも思わないし、この先のことはわりとどうでもいい。けれど、少しずつ、自分の中でなにか余裕のような、ゆとりが生まれてきたのはあるかもしれない。
それがなんなのか、わからないけれど。
それのことを「変わってきた」というのなら、確かに南の効果が大きいだろう。
でも。
「やっぱり俺じゃ、駄目なんだよなあ」
あーあ、と残念そうに少し悔しそうに呟く教師に、笑いがこみ上げる。
変にポジティブで、前向きで、底なしに明るいくせに、どうしてこんなところで自信がないのか。
南が赴任する前から、ずっと瑞希を気にかけて、なにがあっても必要以上に近づいて世話を焼こうとしていたのは、真田なのに。
「俺、先生に向いてないのかな」
(変なところで敏感なくせに、肝心なところで鈍感)
瑞希を放っておけないとちょっかい出し続けてきたのは、恐らくただの直感。
どんな根拠があったわけでもなく、ただの第六感あたりで察したのだろう。
(だから、いいんだけどね)
心の中で呟いて、瑞希はそっと目を開けた。
真田は、手の上に乗ったトゲーを見つめて寂しそうに笑っていて、瑞希が目を覚ましたことには気づいていない。
呑気に「動物園の飼育員になろうかな」なんてぼやいているその声に、思わず声に出して笑ってしまった。
真田が飼育員だなんて、想像しただけで結果が見えている。
「お前、起きてたのかよ!」
慌てふためく真田を見つめて、ああ、やっぱりこんな風に悔しそうにきゃんきゃん騒いでいるほうが、彼らしいと思った瑞希は、むくりと起き上がった。
身長差があるから、座っていてもどうしても上から見下ろすような形になってしまって、そうすると真田はやはり小さい小動物に見えてしまう。
(……かわいい)
思わず口に出しそうになったけれど、寸でのところでそれを止めた瑞希は、じっと真田の肩から自分を見つめるトゲーに目配せした。トゲーは一番の瑞希の友達だ。考えていることなんてお見通しだろうから。
でも身体は正直なので、瑞希はぽん、と真田の頭に手を置いてしまった。
「……わん、って鳴いてごらん」
「馬鹿にすんなー!」
別に馬鹿にしたわけでもなくて、どこからどう見ても子犬にしか見えなかったから、瑞希は正直に口にしただけだ。
それなのに、この目の前の教師には、何一つ伝わっていない。
いつもなら、そんな茶飯事のことを気にすることはないのに、何故だか今日はそうではなくて、瑞希はちょっとだけ力を入れて、真田の肩を引いた。
「先生は、子犬みたい……」
フーッと威嚇するように下から睨まれて、けれどもちろん怖くなんかない。
むしろかわいいと思いながら、瑞希は指でその頬に触れた。
「無邪気で、警戒心が無くて、人懐こくて」
どんなに振り払っても、どうしてなのか、いつもいつも真田は瑞希に話しかけてきた。
「きゃんきゃんうるさくて、呼んでもないのに寄ってきて」
瑞希が喋らないなら自分が喋るとばかりに、どうでもいい話ばかりして。
南も真田も、そういうところが、少し似ているかもしれない。
決して無理矢理中に踏み込もうとしない。それなのに、いつの間にか近くに入り込んでいる。
瑞希が気づかないうちに、テリトリーの中に入っているのだ。
(きっと、二人とも、純粋なんだ)
後ろになにも暗いものがないから、ただ純粋に瑞希のことを思っているから、瑞希の警戒を解いてしまうのだ。
「だから、しょうがない、って、思っちゃうんだ」
純粋すぎて、真っ直ぐすぎて、拒絶する理由もない。本能で瑞希がそう思ってしまったから、南も真田も、瑞希に近いところまで歩み寄ることができた。
けれどそれを、この目の前の教師は分かっていない。
南が来る前から、少しずつそうなっていたというのに、鈍感な真田は気づいていなかった。
気づくどころか、南のおかげで自分も瑞希に近づくことができたと思っているのだろう。
そうではないのに。
「斑目……」
困惑する真田にもっとたくさん触れたいと思ったけれど、それは少しだけ我慢する。
人の体温は嫌いな瑞希も、今指先で触れている温度は心地よかった。
そっと手を離すと、トゲーが瑞希の手に飛び移って戻ってくる。
真田は自分から離れていく瑞希の手を見つめていたけれど、それ以上動いたり何か言ったりしなかった。
おそらく、今一生懸命に瑞希の言葉の意味を考えているのだろう。
本能で、瑞希の言葉には大事な意味が隠されていると察して。
(……やっぱり、犬)
小さく笑って、瑞希は席を立った。
教室から出ても、真田が瑞希を追いかけてくることはなかった。
瑞希はさっきまで真田に触れていた手をまじまじと見つめて、小さく笑う。
「あの人の体温は、気持ちよさそう」
ね?とトゲーに話しかけると、トゲーは嬉しそうに「クケッ!」と鳴いた。
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メインCPは西ロマ・普墺。
その他、米英・東西兄弟・墺洪、スーさん夫婦、リトポも好き。書くかは不明。だけど好き。
尾張のうつけ×日本という異色も好き。
わりと雑食。
過去に書いたVitaminXのSSも放置してます。